介護コラム

連載介護小説「ユウキの日記」vol.2

第2話「知らなかった、父の病のすがた」

【前回までのあらすじ】
作家になる夢を叶える寸前のところにいた主人公・有紀。しかしそんな彼女の元に、父の突然の訃報が届く。
有紀にとってプレッシャーでありコンプレックスだった、優秀で厳しい父。しかし駆け付けた病院で見た遺体は、記憶にあるものとは変わり果てていた。
そして久々に戻った実家で、有紀は父の部屋の惨状を目の当たりにする。
父は、有紀の知らない間に「認知症」を患っていたのだった……。

第1話「新生 アラフォー介護職」

「お母さん、お父さんが死んでよかったと思ってるの」

葬儀の前の晩、久しぶりに聞いた母の話に私は驚きました。

心肺停止を経験した、二度目の心筋梗塞のあとから変わっていった父。
最初は日にちや曜日の混乱だけでしたが、それが次第にひどい物忘れに。
ついには自分が忘れたことすら忘れて、通い慣れた道に迷って路上に座り込んでしまうこともあったそうです。
(そんなお父さん、私には想像できない)
私にとって父は「完璧」そのものでしたから。
語学が得意で、社会情勢は新聞より詳しく、柔道と山登りを愛し、誰の悩みにも真摯に寄り添い、人望だって厚かった。
鼻につくほどパーフェクトで、大きすぎる壁で、私のコンプレックスの源だった人。その父が路上にだらしなく座り込むだなんて……。

その後も母は言いにくそうに、でも吐き出すように父の話を続けました。
水風呂に入ったり、夜中に徘徊したり、服の着方を忘れたり。どれも信じられないことばかり。
しかし、そのあと母が漏らした言葉が、私にとって一番の衝撃でした。
「…だからね。お母さん、これでよかったと思ってるの」
「よかった?」
「お父さんが死んでよかったと思ってるの」
私は自分の耳を疑いました。
「今、お母さん、お父さんが死んでよかったって言った?」
するとそれまで淡々と語っていた母が、突然声を荒げたのです。
「有紀は何も知らないから、そんなことが言えるのよ! このあと、お父さんとお母さん、本当に大変だったんだから! あんた、お父さんの部屋見たでしょ!?」

父が壊れた事実など、聞きたくなかった……

私は、すぐさまあの深海の底のように暗くなった父の部屋のことを思い出しました。
壁一面に貼られた魚の鱗のような膨大なメモの数。

「見たよ。すごいメモの数だった」
「下も見た?」
「下?」
「ところどころ壁紙が白く漂白してたでしょ?」
壁紙の色落ちなど、私は全く覚えていなかったのですが……。
「あんた、あそこにお父さんがなにしてたと思う」
「なに?」
「自分のウンチを塗りたくってたのよ」
最初、私は母の言っている言葉の意味が分かりませんでした。
父の死を良しとする言葉以上に、まったく頭に入ってこない。
あの父が自分の排泄物を? 道に座ってただけじゃなくて? 私の聞き間違いだよね。しかもひどく見当はずれの。
けれど頭で理解できなくても、あの巣のような暗い部屋で嗅いだ饐えた臭いが鼻の奥に蘇ると、体が反応して胃液がせり上がり、夕食を吐き戻しそうになりました。

そんな私を尻目に、母は見たことのないような暗く険しい顔で「ふう~っ」と深く息を吐きました。そして

「……でもね、私が見つけるといつも謝るの。ごめんな、ごめんなって。そりゃあもう、すまなそうな顔で。あのお父さんが泣きそうな顔で謝るのよ。
けどね、お母さんは、優しくできなかったの。いいよって言えなかったの。お父さん病気だったのに。
一番辛いのお父さんだったのに。お母さん、最後までお父さんにやさしくできなかったの」

と言って、火が付いたように泣き出しました。嗚咽を何度も繰り返すほどに。

最後まで父の異変を誰にも相談しなかった母。それは誰からも尊敬され愛された父の人生を、母なりに守ろうとしてのことだったのでしょう。
といっても、これは数日たってやっと冷静に分析できたこと。

その日の私は、ただただ混乱し「できれば聞きたくなかった」「できれば今すぐ忘れたい」と、父の現実を受け止められずにいたのでした。

葬儀で再会した、大好きな親戚のおばさんは

翌日の葬儀には予定をはるかに超えた弔問客が集まりました。
壇上で大きく微笑む、威厳に満ちた父の遺影。部屋のあちこちから、そんな父の偉業を褒めたたえる会話が聞こえてきます。
たぶん、この部屋にいるほとんどの人が、脳血管性認知症を患った父の姿を知らないのでしょう。

そんなことを考えていると
「有紀ちゃん、久しぶり!」
懐かしい声が聞こえました。見るとそこには上京した頃にお世話になった、美佐子おばさんとその娘――私のいとこの和子ちゃんが立っていました。

「この度は、お父さんが急なことになって」
「そうなの。でも、和子ちゃん、今日はわざわざ来てくれてありがとうね。おばさんもありがとねえ」
家を出て3年ほど、私は毎日父の姉である美佐子おばさんの作ったご飯を食べて暮らしていました。
神経質な母とは違いおおらかで優しいおばさんが、私は大好きでした。
おばさんも私のことを、いつも娘のようにかわいがってくれていたのです。
ところが……。
「あなた、どなたですか?」

私は、またザワッと全身の毛が逆立つのを感じました。
すると不意に、どろんと濁った瞳で私を眺めるおばさんの眼の奥に、遺影の中で微笑んでいるはずの、父の顔が見えたのです。

【つづく】

※この作品は、登場人物のプライバシーに配慮して設定を変えていますが、私が体験した事実に基づいた物語です。

ABOUT ME
坂本淳仔
アマチュア劇団の座付き作家、ライターを経て、上京後公募作家に挑戦(集英社ビジネスジャンプ漫画原作、池袋演劇祭、KADOKAWA「幽」怪談実話コンテスト、戯曲など多数入賞)。しかし現在は、相次ぐ親の看取り経験から公募審査員のバイトを退職。初任者研修を修了後、レクリエーションボランティアを経て、デイサービスに勤務。高齢者サロンのスタッフ、行政の文化振興委員のお手伝いをしています。